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植木屋

Author:植木屋
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戒め
この仕事をしていると時々不安になる。

「裸の王様」になっていないだろうか?
皆は、私の行動を戒めてくれるのだろうか?

私の意見に反対してくれる人がいるとホッとする。

反対意見をじっくりと聞いてみて
「うぅぅん、やっぱりこの人の意見は間違ってるよなぁ」
相手の意見と対比することで、改めて自分の意見に自分自身で納得できる。

私は、褒め言葉は嫌いだ。
褒められることに慣れていないからかもしれないが、褒め言葉は嫌いだ。
「歯が浮く」ような褒め言葉を連発するような人とは、できるだけ接触しないように心がけている。

褒め言葉は、何の足しにもならないと思う。
そこから得られるものなど、何もない。

罵倒は嫌だが。
叱咤激励は大好きだ。

62歳になったが、まだまだ努力をしたいと思う。
悪いところは改善したいと思う。

指摘や、反論も大好きだ。
自分では気付かなかったことに、気付かせてくれる。
思い込みや思慮の無さに気付く。

自分では、まだ戒めてくれる職員さんが沢山居ると思っている。

何とか、この良好な関係が持続出来るようにしなくてはいけない。

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テーマ:とりあえず書いとこ ~ф(゜゜) - ジャンル:日記

私の基本思考 | 07:23:04 | Trackback(0) | Comments(0)
年齢
今朝、牧落駅で「朝立ち」をやってきました。

「おはようございます」と言いながら、自民党のビラを配る活動です。

始まった時は、私とU議員さんのコンビ。

U議員さんが、ビラを配りながら
「うちの市長を見ていて、つくづく思うわ。やっぱり政治家は若いないといかんわ。行動力がまるで違うわ。ホンマにびっくりするなぁ」
「ホンマに、そうでんなぁ」

途中から、私とH議員さんのコンビに変わった。

H議員さんは、全国でも最年少の市議会議員さん(今もそうだと思う?)。
私よりも背が高く、かっこいい。
ビラを受け取ってくれる方の数が違う。
「がんばってね」と相手から声をかけてもらっている。

ビラを配りながら考えた。
「彼は26歳。やっぱり、これからは、わしらやなしに若い人に頑張ってもらわんとあかんのんやろうか?」

「やっぱり若い人は、元気がええわ。若い人やないとあかんな。行動力が全然違う」
「これからの世を背負っていく若い人たちに任さんとあかんな」

あまりに、周りの人たちの「若けりゃぁ好い」みたいな発言を聞いていて
「そーかぇ?」
天邪鬼な私は素直に頷けなくなってしまった。

そりゃぁ、若くてもしっかりした信念を持って活動している人もいるが.
「しかし、配慮に欠けるなぁ」と思うことも、しばしばある。
特に自分が、60歳を過ぎてから余計にそう思う。

この齢になると、自分が若いときには気が付かなかったことが、段々と見えてくる。
自分の立場、目線だけでしか物事を見てなかったことに気付かされる。

齢をとって、相手の立場や目線に立って物事を考えることができるようになってきたような気がする。
しかし、私の行動や発言をみて、「まだまだ配慮に欠けるなぁ」と思っていらっしゃる年配の方もきっと大勢いらっしゃるだろうと思う。
70歳や80歳、90歳にならないと解らないことも、きっと沢山有るのだろうと思う。

だから、政治家が若い人たちばかりではだめだと思う。
特に、若いときに思いっきり苦労してきた政治家が必要ではないか。
様々な、経験をしてきた政治家が必要だと思う。
特に参議院がそうだと思う。




テーマ:とりあえず書いとこ ~ф(゜゜) - ジャンル:日記

私の基本思考 | 11:21:09 | Trackback(0) | Comments(0)
院号
何故か、お亡くなりなる知人が続く。

通夜でのお坊さんの説教。
「近頃、様々な葬式の形が出てきましてね。直葬っていうんですか?お亡くなりになられた病院から直接斎場に送られて、荼毘に附す形ですね。遺言だったのでしょうか?そのようにされたご家族が、その後に私のところに相談に来られる「私の父は、亡くなっても一度のお経を聞くこともなしにあの世に行ってしまった。本当にこれでよかったのでしょうか?」ってね。何も、亡くなった方がこの世に未練が有って成仏できずにまよっているんじゃないんです。後に残された家族がまよってしまう。悩み苦しんでしまうんです」

「うーん。説得力があるなぁ」
私も、院号など要らない、戒名すら要らない。という考えの持ち主だった。
勿論、お寺のお手伝いもするし、それなりのお付き合いもさせていただいている。
しかし、幾らお寺に対する援助を人並みにしていても、院号は必要ないと思っていた。

人は、死んでしまえば同じだ。
荼毘に附されて、灰になって終わり。
後は、私のDNAを受け継いでくれた、子や孫が生きて行ってくれたら好い。

葬式が出せない状態だったら、それでも好い。
死体が、周りの人に迷惑にならないように適当に片付けてくれれば好い。

ましてや、死んでからの名前などどうでも好いんだ。
親に付けてもらい、自分で一生懸命育ててきた「博幸」という名前が有るじゃないか。

ずーっとそう思っていた。

葬式は死んだ人の為にするんじゃないんだ。
残された自分たちの満足の為にするんだ。
死んだ人が、この世に未練を残してまようんじゃない。
残された人たちが、一つの区切りを付けて死んだ人を送る心の拠り所にしたいんだろうな。
それなら、死んでしまう自分があれこれ言い残さずに後の者たちに任せようか?

少し前に聞いた説法だが。

人の死には3つの形が有る。
他人の死。
自分の近い立場の人の死。
そして自分が死ぬ事。

「死」というものを痛切に意識するのは、身近な人の「死」でしょうね。
自分が、死ぬ時にはおそらく実感はあまり無いと思います。

どの時点で、「死」と向き合い。
「生きる」という事を真剣に考えるのか?
「生かされている」という事に気付くのか?
そして、感謝の気持ちを持つのか、持てるのか?

仏教は死んだ人のためのものじゃない。
生きている人のためのものです。

幾度となく説法を聞かされたが。
この法話が一番心に残っている。

私も自分勝手なことは言わずに、子供たちのためにも、院号でも貰っとこうか。

心境の変化です。



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私の基本思考 | 06:55:45 | Trackback(0) | Comments(0)
夜長
秋の夜長。
DVDの鑑賞と、読書を楽しんでいます。
昨日は「八日目の蝉」を見た。

面白かったです。
何故だか判らないが、泣いてしまった。

好きな映画の一つに「砂の器」が有る。
この映画も何年かに一度借りてきて、思いっきり泣く。

何故だろうか?
不思議に思えてならない。

私の幼少期は、これらの映画の主人公のような暮らしではなかった。
大切にされ、親や周りからも十二分な愛情を注がれていたと思う。
だのに、自分の実体験を見ているような錯覚に陥ってしまう。

寝る前に読んでいるのが、「白取晴彦編訳・ニーチェの言葉」
これも面白い。

このニーチェさん、たしか高校の倫理の時間に習ったような気がする。
「神は死んだ」というフレーズだけが記憶にある程度です。
たったそれだけのことで「面白そうだ」と思い買ってしまった。

今読んでいるニーチェさんの本は非常に面白いと思う。
まだ半分くらいしか読んでないが。
「あ、そういわれれば、そうだな」だとか。
「あ、そうやったんか」とか。
自分では気づかなかった心の奥底にあるものが、たくさん書いてあるように思う。

思想や宗教関係の解説書などの本は好きです。
この類の本は、「人ほどう生きるべきか」が書かれてある。
読んでいて、感動するもの、共感するものなど、いろいろな本に出会う。

本も、映画も何に感動して、共感するのかと考えてみると。
どうやら自分では普段気付いていない、心の奥底にあるものに触れるからだろうな。
自分は経験していないが、DNAに刷り込まれたというか、私の先祖がどこかで体験したことに関係が有るのかもしれない。

そのうちに、何故「砂の器」を見て泣いてしまうのか、が判るのではないかと思いわくわくしている。

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私の基本思考 | 06:38:17 | Trackback(0) | Comments(1)
いじめ3
今日の新聞に雑誌広告が載っていた。

それは「いじめ」ではなく「犯罪」である。

このタイトルを読んで、私が何を言いたかったか。
どのように説明すべきか、悩んでいたことがはっきりした。

教育現場では、問題になっている行為が「いじめ」なのか「犯罪」なのかをはっきりとさせ、対処する必要が有ると思う。

首を絞めてけがをさせた。
数万もの金を脅し取った。
万引きを強要した。

これらは犯罪だ。
これらの行為を見過ごしていた、放置していたというのなら当該の教師に責任が及んでくるだろう。
当然のことのように、教師の怠慢で教育現場が犯罪の温床になってはいけないと思う。
教育委員会もしっかりと対処すべきだ。

子供から「いじめ」を受けていると訴えられた大人が、どのように解決すればいいのだろうか。
まず被害を訴えている子供の被害の程度が問題だろう。
犯罪と呼べるような行為を受けていたのなら、学校等に訴え、教育現場がきちっと対処するべきだろうと思う。

問題はどこまでの行為を「ふざけあい」とするのか、「いじめ」と決めるのかである。
「セクハラ」問題と同じで、その人の受ける感覚で大きく変わるように思う。
同じ行為でも、ある子にとっては「いじめ」であり。
また別の子にとっては「ふざけあい」だと思う。

「いじめ」と受け取る子ににとっては、その行為は嫌なものだろう。
これに対しては、周りの人が守ってやらなければならないことは明白だが。
あまりにもその子の言い分を聞いてばかりいると、その子は余計に疎外されないか心配である。
結局その子は社会になじめない人になってしまう恐れすらある。

過去にいじめられた事をいつまでも引きずっている人もいる。
いじめた相手を恨む気持ちも判るが、それで今の自分が楽しいのだろうか?

せっかくの自分の人生。
嫌な奴にいつまでも振り回されるのは、余計にばかばかしいことだと思いませんか?
まして、もう目の前から居なくなってしまったのなら、よけいじゃないですか。
自分の人生を楽しめばいいのにと思う。

いじめられた側が一生それを思い続け。
いじめた側が、何も思っていないとしたら。
不公平だよね。

いじめた人は、自分がしてきた行為が相手にとって深い傷跡を残しているとしたら。
相手が今も自分のことを恨んでいるとしたら。
そのことは、一生背負って生きていかなければいけないだろうと思うのだが。
殆どのいじめた側の人たちは自分の行為は「いじめ」だとは気付いていないことも問題だろうと思う。



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私の基本思考 | 14:57:26 | Trackback(0) | Comments(0)
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